人工知能(AI)が人間を超えるか?
人工知能が神になるか?
何ともすごい問題提起ですが、
あるグループでの投稿に以下のような意見が出ていました。
面白いので転載してみます。
僕としては、この論争
「神学論争」のようにも見え始めてきました。
中世の「宗教戦争」のようになったら困るんだけれど。
///////////////////////////////////////////以下引用(facebookグループ内の発言より)
今、このスレッド拝見しました。的外れでしたらお許しください。
私はもう大学も定年退職した年寄りですが、ここに引用されていたYUさんのブログをはじめて拝見して、とても嬉しく思いました。
ここで話題になった記事しかまだ読んでいませんから、YUさんのすべてを理解したわけではありません。その意味で一知半解のそしりは免れませんが、少なくとも「経験的推論」に理解がある日本人AI関係者は極めてまれなので、感動いたしました。
YUさんはこれを理解しています。難を言えば、Geometric median(*)の数学的理解に問題があるように思いますが、それはご愛敬といたします。
主としてロジカルシンキング(クリティカルシンキング、論理学、数学など)だけでAIを実現しようとしたのがAIの第一次ブームです(誤解を回避するための付記: それ以外のことに取り組んでいた研究者もいますが)。
ロジカルシンキングだけでは人間の知力には到底及ばないことが反省され、第二次ブームの主役は知識ベース(経験知を含む知識をデータベースにしたもの)となり、ロジカルシンキングに加えて経験的推論を利用する知識工学になったわけです。(私は、この時代、ほんの一瞬世界でトップ立ったと感じたことのある技術者です)
日本は第五世代コンピュータの時代でしたが、第五世代プロジェクトは「知識工学」に最後まで背を向けていました。(誤解を回避するための付記: この時代に、それ以外のこと、例えばニューラルネットワークなどに取り組んでいた研究者もいますが)
さて、しかし、経験的知識をコンピュータに教えるのは人間な(人手で入力しなければらない)ので、大変すぎるということから、第二次AIブームも低調になってゆきます。
第三次AIブームは、経験的知識をオートマティックに取得することができるニューラルネットワークの一種であるディープラーニングがけん引しています。
これは、人手で入力しなければらない苦痛から人間が解放される利点があるからです。
日本のエリートたちは、残念なことに、AIの第二次成長(第二次AIブーム)を経ていないことか不幸の原因となっています。
笑ってしまいますが、ディープラーニングがブームになってから参入してきたにわかAI研究者の多くがディープラーニングが他のAI技術にとってかわられる技術という誤解をしています。
ディープラーニングは第二次ブーム時代に発展した経験的知識と経験的推論も第一次AIブーム時代に発展したロジカルシンキングも含む膨大なAI技術群を補強する補完技術の一つにすぎません。
ディープラーニング教(ディープラーニングが唯一無二のAI技術と勘違いしている方々のこと)の皆さんは、森の前に生えた若木を見てこれが森だと狂喜(狂気)しているにすぎません。
森はその若木を含めてその後ろに広大に広がっています。しっかり勉強していただきたいものです。
AIの発展史の中で、ロジカルシンキング(クリティカルシンキング、論理学、数学など)だけに偏執するのは第一次ブームまでのことです。
つまり、とっくの昔に克服されているということです。
日本のエリートは、AIの第二成長期(第二次AIブーム)でまともな経験をしていません。
アメリカの第一次ブームの副産物であるAI向き言語の二番煎じの言語開発に多額の予算を使っていて、エリートたちが “手をつないで” 世界から落ちこぼれていたからです。
エリートたちのAIの発達不全です。
ミンスキーの文学的ペーパーを頼りに、1983-4年ころ世界初のフレーム型知識ベースや予期駆動フレームなどを実装して駆使していた私などはいわばアングラ技術者にすぎませんでした。
ロジカルシンキングも否定すべき対象ではありませんが、100あるヒトの推論方法の一つにすぎません。
ロジカルシンキング教の方々には信じがたいでしょうが、ヒトはほとんどの場合、経験的推論を用いて生きています。
現実世界では、ロジカルシンキングが使えない場面がほとんどだからです。とはいえ、まれにはロジカルシンキングが使える場合もありますから、その場合にはロジカルシンキングも使えるマルチ人間が有利なだけです。
逆に、ロジカルシンキングしかできない方はたいてい残念なことに現実的な社会に不適応です(例えば、自閉症スペクトラムの方はロジカルシンキングしかでききず、経験的推論が不得意です)。
実際、ロジカルシンキングにおいても「常識」と言われる経験的知識と経験的推論が多用されていることが分かっています。
これは、ロジカルシンキングにおける「常識」問題(膨大な「常識」を持たないとロジカルシンキングはできない)として世界に認知されており、第一次AIブームの成果の一つになっています。
新井先生は「AIは文章の意味を理解しないので東ロボは失敗した」などと言い訳していますが、世界から見れば何とも間の抜けた言い訳ですね。
発達不全の日本のAIエリートの恥ずかしい部分が現れてしまっているように思います。
yuさんが指摘する通り、彼女はAIの基礎がなくて経験的知識と経験的推論に対する認識が極めて低い(ゼロではないにしても)ことが問題です。
他方、中国ではほぼ同時期に開発を進めていたAI研究者たちが文章の意味を理解して中国の各種試験を突破するお受験システムを完成させています。
詳細についての文献が手に入らないので、断定はできませんが、彼らのソフトは、事例ベース推論とフレームにディープラーニングを組み合わせた複合ソフトだろうと私からは見えます。
「AIは文章の意味を理解しない・・・」はとんでもないウソです。文章の意味を理解するAIを新井チームは思いつかなかったというだけのことです。
中国のチームは、国家的見地からわが国のわが社に派遣されていたトップレベルの中国人研究者(当時30歳代だった私よりも皆さんとも10歳前後年上でした)の「弟子」または「弟子の弟子」に当たる人たちです。
直系に当たるかどうかの確信はありませんが、影響を受けていないとは考えられません。
彼らの弟子たちであれば、「経験的知識の知識ベースと経験的推論とディープラーニングの複合系」くらいのことは思いついて当然と思います。
当時、私の仕事に注目したのは主に中国で、そのほかにはアメリカからの問い合わせがいくつかあった程度です。
日本のエリートの皆さんは、妨害に辣腕を発揮してくださいましたので、相手にしないことにしていました。
日本では、懇意にさせていただいた明治大学と法政大学の工学系の研究者の少数の皆さんだけが目を付けてくださいました。このことが、のちに私が法政大学や明治大学に勤務することになったご縁につながりました。
新井先生は、科学嫌いの官僚に対してAIを知らしめた功績があります。
同じ程度の落ちこぼれ学者でも男性ではここまででさえやり遂げられなかったでしょう。
こわもての男の談判では通じなくても物腰柔らかく女性が説明する方が効を奏することはよくあることです。女性としての魅力も能力のうちだと私は思います。
人間だれしも完璧は求められません。
yuさん他多くの方が指摘するようにAIに関しては彼女は未熟な研究者です。
彼女が日本の代表になってしまうところが、残念な日本のエリートの知的水準を示しています。
彼女だけの責任ではありません。彼女を担いだたくさんの「権威」がいたことは確かなのです。
スタップ細胞の某女史のような形式違反(写真の差し替えなど)は指摘されていませんが、構造はこれと同じです。
アングラにはYUさんのような素晴らしい技術者もいらっしゃるでしょうが、多勢に無勢ですから日本のエリートの無理解・低水準は動かしがたいものがあります。
新井先生が日本語について発言していることについては、長尾さんほかの皆さんがおっしゃるように日本の母語教育の議論を改めて引き起こしたという功績があると思います。
私は、「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ(中国四川地方の諧謔)」という言葉をここで思い出します(鄧小平がこの言葉「不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫」を引用して有名になりました)。
経緯や理由はともかく彼女ほど有名になった方が発言することの影響力は大きいので、その功績は素直に認めてよろしいのではないでしょうか。
しかし、その発言の内容がロジカルシンキングにこだわっているところが、知の全体像を描こうと日夜努力している人たちから見ると偏狭にすぎるように見えるのも事実です。
知識には「論理的知識」と「経験的知識」があります。「論理的知識」はごくわすかで、「経験的知識」はほぼ無限に(膨大に)あります。
経験的知識としての「全ての」と論理的知識としての「全ての」では、取り扱い方法が異なります。
しかも、「経験的知識」は「論理的知識」から影響を受けますがそこから生まれて来ることはありません。
逆に「論理的知識」は「経験的知識」から生成されます。
「経験的知識」が知識の土台で「論理的知識」はその上部構造です。
土台なくして上部構造は構築できませんから、「論理的教育」とは別に、子供たちに対する母語教育は必要となるわけです。
母語は経験的知識です。経験的知識はロジカルな知識ではありません。
この簡単な構造すら理解できない方が偏狭なロジカルシンキング教の信者たちなのです。
「経験的知識」は同一民族であっても生活環境や文化的背景の違いで違った意味を持ってしまうものです。
さらに、民族も違えば似ているように見えてもその実はかなり異なる場合も少なくありません。
それらの違いを理解しなければ、人々の間のコミュニケーションは成立しませんし、世界の平和も成立しません。英語の自然言語(経験的知識の一種)の “all” は「例外がない」と言う意味を伴いますが、日本語の「全ての」はもともとおおむね同様であればそういわれるもので、「全ての人が従っていたので、私もしばらくしたのちこれに従った」などという文章も成立する(自分はすべての人に入っていないのか?)のです。
日本語は、おおむね心優しいので、常に例外も許容している表現となる傾向があります。
コメント