三日坊主の早朝ウォーキング-9

三日坊主の早朝ウォーキング

日々の朝の風景と歩み

朝が来るたびに、夜明けが少しずつ遅くなっているのを感じる。また、気温も少しずつ下がっているようだ。家を出た途端、冷たい空気に反応してくしゃみが一つ出た。姿勢を正し、両肩を後ろに引きながら歩き始める。今日は少し早く歩けそうな気がする。両手を少し力強く振りながら、歩幅も広くしてみる。今日は少し遠回りをして、余分に歩いてみようと決めた。

ローカル宗教と国家権力の対立

ローカルな宗教は、国家権力と対立すると滅びることが多い。最近の例で言えば、オウム真理教がその典型だ。しかし、パウロが取ったアプローチは巧妙だった。「どれほど強力で尊いとされる権威であっても、神に依らない権威はない」との信念に基づき、国家権力との正面対峙を避けつつ、場合によっては金銭で懐柔するなど、世俗権力とうまく折り合いをつけた。その姿勢は、まるで現在の自民党政治や統一教会を彷彿とさせる。ただし、キリスト教の目的は人間の現生での救済であったことが重要だ。

正統派とマルキオン派の対立

キリスト教初期の時代、正統派と同じくらいの力を持っていたマルキオン派は、反ユダヤ主義的な色彩を持ち、ルカによる福音書の一部とパウロ書簡の一部を改ざんして、自らの聖書を作り上げた。これに対抗するため、正統派は自分たちの聖典(キャノン)を確定し、新約聖書と旧約聖書をセットで聖典として定めた。

 

しかし、正統派はすべての正当だと思われる文書を聖書に収録したため、(マタイによる福音書・マルコによる福音書・ルカによる福音書・ヨハネによる福音書と書簡集等から構成される新約聖書とユダヤ教の文書からなる旧約聖書とセットで聖典として確定させた。)聖書には複数の文書の間で食い違いが生じることが多い。これにより、聖書の整合的な解釈は難しいものとなった。

敵対理論と神学の発展

キリスト教の信条や教義は、強力な敵対理論の出現によって防衛的に生じることが多い。キリスト教の目的が人間の救済にあり、理論を第一義に置いていないため、敵対理論が強力であればあるほど優れた神学が生まれている。

 

例えば、マルクス主義という無神論体系が登場したとき、チェコの神学者フロマートカのような優れた神学が現れたのもその一例だ。

アウグスティヌスと神学の難問

中世最大の教父哲学者であるアウグスティヌスは、「神は完全な存在なのになぜこの世に悪はあるのか?」という難問に取り組んだ。彼は悪を「善の欠如」として位置づけ、チーズの穴あきモデルで説明した。善がチーズの部分であり、悪はその穴であるとする考え方だ。しかし、自然災害のような天災はこのモデルでは説明できず、未だに神学上の難問として残されている。

 

アウグスティヌスの思考は、キリスト教徒でなくても、多くの人々がその影響を受けていると言える。悪とは何か、この問いに対する答えは、現代においてもなお深い考察を必要としている。

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